三連休とは孤独の意なり!!

最近読書家になってきた。
読書はあまり部屋でしないことにしている。
これは研究者の卵だったときからの癖だ。
ものを書くときは仕方がないので部屋にこもるが、勉強*1自体は外でするようにしている。
今日もレヴィナス『神・死・時間』だ。


今日は鴨川べりで読書。
昔から好きなポイントの一つ。
あまり北にいくのはいただけない。人が多すぎる。
真ん中あたりはもっといただけない、カップルの邪魔にしかならない。
南はまあ、あれだよ・・・。

ということで、いいのは今出川から御池までとなる。
今日は御池付近で。
何で外でわざわざ勉強なんかするのかというと、ただ単に外が好きだから。
雲を見る、きれいだね。
空を見る、きれいだね。

まあ、それだけ。
本から目を上げて壁を見るよりかは、はるかにいいことだと思っている。
まあ、少しだけ恥ずかしいことには変わりはないけれど

*1:理系は大体研究というが、なぜか僕のいた業界では研究という言葉は使わずに勉強という言い方をする

一人のときが多いので

最近読書家になってきた。
読書はあまり部屋でしないことにしている。
これは研究者の卵だったときからの癖だ。
ものを書くときは仕方がないので部屋にこもるが、勉強*1自体は外でするようにしている。
今日はレヴィナス『神・死・時間』だ。
昔読んでいた本を読むのは面白い。特に自分が勉強で使っていた本はすげぇ面白い。それはなぜかというと書き込みがあるから。書き込みの中には、「分かりきったことを書くな」っていうものから、「意味が分からない・・・」ものまで、いろいろある。
そのなかでも中には「何だ?!このアイデアは!!」というのもある。

なんか才能の片鱗を感じさせる一文があったりしている。
この発想で書かれた論文が読みたいとか思わせる。
しかし明らかに自分がそのラインで書いていないので、今のところきっとそれは存在しないのだろう。

しかし私は自分が書いたものが好きだ。
中には目を覆いたくなるような駄文もあるのだが、たまに「こいつすげぇな」と思うようなエセーがあって驚く。まあ、自分が好きなものを好きなように書いているんだから、当然といえば当然なんだけれど。
人が書いたものはあまり好きじゃないかといわれれば、そうでもない。
でも、人が書いた自分に似た文章は大嫌い。
死ぬほど嫌い。

*1:理系は大体研究というが、なぜか僕のいた業界では研究という言葉は使わずに勉強という言い方をする

台風

台風が近づくと、軽くどきどきする。

昔は台風となると友人とドライブをした。おかげで道をふさぐ倒木をどかしたり、水のたまった凹地の一番下で車がエンストし、車の中に浸水。窓から車を出て、車を巨大な水溜りから押し出したこともある*1


台風の真っ只中、仕事をしていたこともある。野外イベントの仕事で、イベント用のテントを張りまくっていた。総重量80Kg以上はあるあのテントが、私の目の前をくるんくるんと転がるのを見た。
倒れたテントをみんなで押さえた。あまりに風が強く押さえているのに動いていた。


はっきりいって、無事だったのでとても楽しい思い出に分類されている。
カッパを着ているのに、隙間から雨が入り結局びちょびちょになったことも今では軽い苦労自慢の一つだ。

そういう苦労自慢はかつてのバイト先では腐るほどある。また腐るほど聞ける。すべて実話であるし、十分に楽しい。


でも一番苦労したやつは、サークルで後輩だった彼だろう。
台風で水没した橋を渡って水死した。


台風が近づくと少しだけどきどきする。

*1:その際車の所有者はハンドブレーキを引き、私の妨害をしていた。天然バカだ

子供のころの夢

小学校の卒業文集にこう書いた。
プログラマ」になりたい。
たぶん世界平和を求めていたような気がする。
いったい何のプログラムを作るというのだろう。
多分当時やっていた映画「WARGAME」の影響は小さくないと思う。
ペンタゴンかどっかのコンピュータにハッキングして、核戦争一歩前の状況を引き起こしてしまう高校生の話だ。
最後はコンピュータに三目並べをやらせ、勝敗のないゲームがあるとコンピュータ自身に理解させ、戦争の無益さをコンピュータ自身に教えることで核戦争を回避するというストーリだった。


ようするに、その主人公が当時の僕にとってヒーローだった。そのヒーローにあこがれたわけだ。
後に、ヒーローが佐山悟になり、自分の担当教授となり、将来あるであろう自分になった。そしていつかヒーローが不在となった。


ヒーローが不要になったからだ。
ヒーローがなくても自分の指針を何とか見つけられるようになった。
いや、そうじゃなくて、多分なんか楽しくなったのかもしれない。


道は誰かに作ってもらうものではなく自分で切り開くものだ
とは思わない、そもそも壁も茨の道も主観で創ったモノに過ぎない
世の中にほんとはそんなものない。


ふとそう思った、木曜日。

やさしい

優しさは与えるものというのが、ね、ちょっとね。
与えることができるのは、剰余だよね。
剰余の譲与だ。
シャレてるね。

優しくされるのは、与えられるってことだよね
与えられるってことは、現状は欠損なわけだ。
欠けてるんだ。

持たない者への持てる者の譲与
つまり施しだ。

そりゃ、イヤだねぇぇ。

でも、こういう優しさもある
口の中に入れかけていたパンを自分の口から引き剥がし相手に施す、
そのパンは自分も5日振りやっと手に入れたパンだ。
なぜそういうことをするのか?自己犠牲?
そういうヒロイズムではなく、ただ目の前の空腹な人に出会ったから、
その空腹な人の顔を見てしまったから。
ただ、それだけ。

犠牲ではない犠牲というものが確かにあると思う。
顔を見るとなかなか人は殺せない
昔むかし、けんかになりかけた、
相手の胸倉つかんで片手で相手を壁に押し付ける
開いた右手で相手の顔を殴るだけ、加減を間違えれば相手は死ぬ。
結局その顔を殴れなかった。
そこまで有利な状況で僕が殴ったのは壁だった
相手の顔の横の壁
殺せると思ったときに相手の顔を見た
それだけで殴れない、殺せない。

相手の顔を見たときに、自分は殺せないと思った。
殺せないが死なせないになった
死なせないが生かしていたいになった

要するに優しさというのは、きっとそういうものだと思った。
きっとそうせざるを得ないようなものなんだろうと思った。

でも優しさが迷惑なときもあるし、裏目る事もある。

多分優しさがその本質とは異なる何かに巻き込まれることでそういう状態を生むと考えた。
それが何かといわれたら、多分politicsだと思っています。