やさしい

優しさは与えるものというのが、ね、ちょっとね。
与えることができるのは、剰余だよね。
剰余の譲与だ。
シャレてるね。

優しくされるのは、与えられるってことだよね
与えられるってことは、現状は欠損なわけだ。
欠けてるんだ。

持たない者への持てる者の譲与
つまり施しだ。

そりゃ、イヤだねぇぇ。

でも、こういう優しさもある
口の中に入れかけていたパンを自分の口から引き剥がし相手に施す、
そのパンは自分も5日振りやっと手に入れたパンだ。
なぜそういうことをするのか?自己犠牲?
そういうヒロイズムではなく、ただ目の前の空腹な人に出会ったから、
その空腹な人の顔を見てしまったから。
ただ、それだけ。

犠牲ではない犠牲というものが確かにあると思う。
顔を見るとなかなか人は殺せない
昔むかし、けんかになりかけた、
相手の胸倉つかんで片手で相手を壁に押し付ける
開いた右手で相手の顔を殴るだけ、加減を間違えれば相手は死ぬ。
結局その顔を殴れなかった。
そこまで有利な状況で僕が殴ったのは壁だった
相手の顔の横の壁
殺せると思ったときに相手の顔を見た
それだけで殴れない、殺せない。

相手の顔を見たときに、自分は殺せないと思った。
殺せないが死なせないになった
死なせないが生かしていたいになった

要するに優しさというのは、きっとそういうものだと思った。
きっとそうせざるを得ないようなものなんだろうと思った。

でも優しさが迷惑なときもあるし、裏目る事もある。

多分優しさがその本質とは異なる何かに巻き込まれることでそういう状態を生むと考えた。
それが何かといわれたら、多分politicsだと思っています。