前ふり

さて、1900年にある本が出版されました。
ジークムントフロイトの「夢判断」ですね。
まあ、いろいろ良いこと書いてあるんだけれど、特筆すべきは「無意識」の発見*1ですね。今では日常会話的にも使われるテクニカルタームですが、まあフロイトが言っていた意味は要するに「人間って思い出せないことに支配されているよね」ってなことでしょうか。
んで、面白いところが、自分のことは自分が一番良く分かっていると思っていたら、当人にとって思い出せない過去に支配され、異常な精神状態になることがあるってことが分かった。これは医者がその患者の過去やその患者の言動を分析することによって異常の原因を特定、治療ができるということがわかった。
これがややこしい。
自分の主人は自分であり、自分のことは自分が一番良く理解しているはずなのに*2、実は観察者である意志が最も自分のことを理解しているという自体があるんだということを臨床的に証明したということ。

ってなこといわれもねぇ

*1:個人的には発明だと思う。若いころは捏造だと思っていた

*2:相対的に一番理解しているという意味

テーマ

「なんであんなことした!?」
んなこと、言われても・・・、分かりませんって答えアリ?、じゃないよね


ってことありますよね?ありますよ。

何かことがあった場合、それをした人間に責任が帰せられます。
これは人間の肉体の主人はその肉体の精神であるという基本原理に基づいている。
つまり、ある行為はその精神がすべて命令を下しているのだから、その命令を下した精神を罰してしまえ!!って発想ですね。

イメージを打ち破れ

イメージは自分が他者のために形成したものにすぎない。しかしイメージは自分を縛る。もともとは抽象化された自分にしか過ぎないイメージが、個別的な自分と一致しないことに自分がいらだつ。
他者の自分へのイメージを変えること、それは新たに自分を定義づけることでしかない。新たな抽象化を繰り返すしかない。
なお、気づく、新たな抽象化は個別的であった自分の中の何かをどんどん離れていくことに。
他者はそれをどう見るか。
他者にとって抽象化された自分は唯一具体的なものとして現れる。
驚きは真実として理解される、たとえば普段まじめな人が酔った勢いでエロかったらその人は真実はエロい人と理解される、不良が雨の日に子犬を救うようなものだ。
新たな抽象化は真実の刷新を生む。
真実は塗り替えられて、新たなイメージを提供する
しかし、イメージはその人の本質でなければ意味がない。
もちろんそれは本質ではないにもかかわらず、通常本質でないと困る。そうしないとその人を理解できないから。いや、もちろん理解できないんだけれど、理解できないとなんか困る場合のほうが多い。
そんなコロコロイメージをける人に対しては本質が読み取れない。ではどう理解すれば良いか。
「ああ、あの変な人」
理解できないもの、あるいは理解する必要のないものという分類をしておけば良い。
あるいは「馬鹿」。
どちらかで事足りる。

かくして、自分の努力は雲散霧消。
なんのためにイメージの変化を目指していたのか分からない。
でも、まてよ。
そう、なんのためにイメージの変遷を繰り返していたのか。
他者に縛されている自分を取り戻すためなのではなかったのか
他者に馬鹿にされること、それは他者から自由であるということじゃないのか。

そう他者に必要とされなくなって始めて人は自由になれる。

そういう自由を望んでいたことに、こういう段階でやっと気づくこともできるかもしれないと人はいうのだけれども、そういう風に言われて持って気分になるかもしれない。

私はこういう人間

私はこういう人間だと自分で自分を定義づける。誰がそんなことやるかと思いながら、結局誰もがやる思考的な行為。
決して明示的でなくても暗示的についついやっちまう。たとえば、着る服がいつも似た感じにならないかい、その癖はいつから身についた、その口調は何のため。
要するにそういうこと。

自分が好きなもの、自分が好きな人、自分が嫌いなもの、自分が嫌いな人、すべてが自分を定義づける。
要はそれを言語化するかどうかということ。言語化すれば、それは明瞭な定義になる。しかし言語はそう十全ではない。どうしたって抽象化されたものにしかならない。
そうすると抽象化されて単純になった定義にもともとの本質がずれてくる。
新たに単純になった自分、それがイメージ化された自分になる。
イメージとは他人が自分にしてくるのではなく、自分が他人のために行うもの。
ウサギが狼から逃げようとして、自分の足跡を地面に残し、狼に追いつかれる。
ウサギは狼の鼻を呪うかもしれない。しかしウサギは逃げることで追いつかれるための痕跡を残す。

まずは

そういえば、他人が理解できないってぅなら、私のことも他人は理解できないってかい?

と聞かれたら、
さあね、知らないよ。
と答えるしかない。
っていうか、お前俺の話を理解していないだろうと。

他人が私のことを理解しているかどうかを私は理解できないよっつうことだ。
他人は私の理解を超えている。いや、理解を超えた行動をするとかじゃなくて、構造的に理解を超えているって言ってるの。
君の脳に他人は入らないの。

そういう意味で、他人は無限なわけだね。
いや、ほらお前有限じゃん。有限を比較できないレベルで超えているんだから、無限だよ。

ほら、最初に考えていた話とずれてきた。
まあ、前ふりだ。

理解ってやつは

他人のことは理解できない
よく言われる言葉ですね。
でも、この言葉には「でも本当にその人のことを思うと理解できるものなのよ」なんて意味が込められています。
馬鹿げている。



人は他人のことは理解できない。
正確には私は他人を理解できない。
理解って言うのは、自分の中に取り込むこと。
平たく言えば、自分流に解釈すること。
食事をイメージするといい、どんなものでも人間は当人にとっての栄養とする。そう、味覚すら一種の栄養だ。
つまり、消化する。
食事と違うのは唯一排泄しないことくらい。
まあ、こういう日記が排泄行為といえば排泄行為だけどね。


で、他人だ。
他人を理解するということは、他人を食らうことに他ならない。
で、何を食うのか?
イメージ、発言、外見、挙動、これらは何かというと、つまるところ外面。
外面というと、本音というものと対置されそうだけれど、本音も所詮は外面。
なんでって?
言葉は常に外面でしかないから、自分の心そのままを言葉にすることはできない。
たとえばこう考えると良い、「夕日は赤い」という「血は赤い」という、では夕日と血は同じ色か?
違う。同じ赤ではない。でも同じ言葉で言う。
言葉は現象の抽象化によって形成された非常に抽象的な概念でしかない。
具体的なものを100%伝えることはできない。
心の中の言葉を、他人に理解できるように言葉にしたところで、たとえそれが嘘偽りないものだとしても、結局はズレる。
ズレてしまったものを本音と理解し、それをもって「あの人ってこういうこと考えてるんだ」と思うことすでにそれが誤り。
中は見えないから中、見えているものはすべて外。
この見えているというのはすでに比喩ですよ。感じることも外ですよ、もちろん。


他人を食らっているような気がして、本当は他人がだしたカスを食らっているに過ぎない。要するに食らえない。
他人そのものには近づけない。
愛情や感情の問題でなく、構造的な問題でそうなっている。


それでも、きっとかまわない。
それでも他人を愛せるし、十分憎める。

まあ、だからこそ、他人のことを理解できるような錯覚に陥るんだけれど。