理解ってやつは

他人のことは理解できない
よく言われる言葉ですね。
でも、この言葉には「でも本当にその人のことを思うと理解できるものなのよ」なんて意味が込められています。
馬鹿げている。



人は他人のことは理解できない。
正確には私は他人を理解できない。
理解って言うのは、自分の中に取り込むこと。
平たく言えば、自分流に解釈すること。
食事をイメージするといい、どんなものでも人間は当人にとっての栄養とする。そう、味覚すら一種の栄養だ。
つまり、消化する。
食事と違うのは唯一排泄しないことくらい。
まあ、こういう日記が排泄行為といえば排泄行為だけどね。


で、他人だ。
他人を理解するということは、他人を食らうことに他ならない。
で、何を食うのか?
イメージ、発言、外見、挙動、これらは何かというと、つまるところ外面。
外面というと、本音というものと対置されそうだけれど、本音も所詮は外面。
なんでって?
言葉は常に外面でしかないから、自分の心そのままを言葉にすることはできない。
たとえばこう考えると良い、「夕日は赤い」という「血は赤い」という、では夕日と血は同じ色か?
違う。同じ赤ではない。でも同じ言葉で言う。
言葉は現象の抽象化によって形成された非常に抽象的な概念でしかない。
具体的なものを100%伝えることはできない。
心の中の言葉を、他人に理解できるように言葉にしたところで、たとえそれが嘘偽りないものだとしても、結局はズレる。
ズレてしまったものを本音と理解し、それをもって「あの人ってこういうこと考えてるんだ」と思うことすでにそれが誤り。
中は見えないから中、見えているものはすべて外。
この見えているというのはすでに比喩ですよ。感じることも外ですよ、もちろん。


他人を食らっているような気がして、本当は他人がだしたカスを食らっているに過ぎない。要するに食らえない。
他人そのものには近づけない。
愛情や感情の問題でなく、構造的な問題でそうなっている。


それでも、きっとかまわない。
それでも他人を愛せるし、十分憎める。

まあ、だからこそ、他人のことを理解できるような錯覚に陥るんだけれど。