イメージを打ち破れ

イメージは自分が他者のために形成したものにすぎない。しかしイメージは自分を縛る。もともとは抽象化された自分にしか過ぎないイメージが、個別的な自分と一致しないことに自分がいらだつ。
他者の自分へのイメージを変えること、それは新たに自分を定義づけることでしかない。新たな抽象化を繰り返すしかない。
なお、気づく、新たな抽象化は個別的であった自分の中の何かをどんどん離れていくことに。
他者はそれをどう見るか。
他者にとって抽象化された自分は唯一具体的なものとして現れる。
驚きは真実として理解される、たとえば普段まじめな人が酔った勢いでエロかったらその人は真実はエロい人と理解される、不良が雨の日に子犬を救うようなものだ。
新たな抽象化は真実の刷新を生む。
真実は塗り替えられて、新たなイメージを提供する
しかし、イメージはその人の本質でなければ意味がない。
もちろんそれは本質ではないにもかかわらず、通常本質でないと困る。そうしないとその人を理解できないから。いや、もちろん理解できないんだけれど、理解できないとなんか困る場合のほうが多い。
そんなコロコロイメージをける人に対しては本質が読み取れない。ではどう理解すれば良いか。
「ああ、あの変な人」
理解できないもの、あるいは理解する必要のないものという分類をしておけば良い。
あるいは「馬鹿」。
どちらかで事足りる。

かくして、自分の努力は雲散霧消。
なんのためにイメージの変化を目指していたのか分からない。
でも、まてよ。
そう、なんのためにイメージの変遷を繰り返していたのか。
他者に縛されている自分を取り戻すためなのではなかったのか
他者に馬鹿にされること、それは他者から自由であるということじゃないのか。

そう他者に必要とされなくなって始めて人は自由になれる。

そういう自由を望んでいたことに、こういう段階でやっと気づくこともできるかもしれないと人はいうのだけれども、そういう風に言われて持って気分になるかもしれない。