たまにはこういうのも

一人でするのが愛、二人でするのが恋(石田純一

そんなこと言われても的な名言ですね。
そもそも両者はほぼ同義。その差を云々するのがなんかアレなんですが、その差をうりゃうりゃ言うのがまた通ってなもんです。

愛について語ると大体がややこしくなるってのが道理でして、何でかって言いますと、理想と現実が明確でいてそのくせ両者の境界は自由に侵犯され、そんでもって「理想と現実は違うんだよね」という言葉の重みと「理想を目指すのが愛だよね」って言葉の重みが、経験的にも理念的にも等しい、この点だ。

だいたい、ある程度の年齢に達すると「愛」もその責任の取り方として「結婚」ってのが出てくる。両者は本質的に同じものではない、なんていい方もありますが、まあ、同じともいえる。
ほらキリスト教の結婚式だと二人の愛を神の前で誓い、祝福を受けますよね。あれは恋愛の延長としての神の前での制約なわけですわい。
でも、結婚って式あげればいい訳じゃないので、制度としての家族を構成しなくちゃいけない。
こうなってくると、結婚も政治の一部になってくる。
そういや、家事とかをギリシャ語いうと「oikos」なわけだが、これが転じて「economy」になったわけですわな。
そういう風に考えると、結婚生活も小さな制度的活動なわけで、そうなってくると、最初にあった本の小さな恋心ってのがどんどんどっかに行くような気もする。

つまりは金の話になる。
金の話は汚い。
愛の話は奇麗だ。
ここでややこしくなるわけだね。


つまるところ、愛は愛だけでは語れない。しかし、純粋に愛だけを抽出してその気分に浸れることもある。鴻上が昔それ近いことを言っていたような気もする。用は一種の幻想なのかもしれない。
恋愛幻想論、ここが結局一番つまらないところですね。
幻想というものの、これほど現実的な幻想はない。幻想で現実的に泣けるか。なんか不安になれるか?目が合っただけ喜べるか?
つうところ、恋愛は基本的に幻想ではない。

ただ、相手のことを理解している人にとっては幻想ですけれどね。