子供のころの宝物は大体がゴミでしかない

距離って言うのがなんか苦痛に感じる。
物理的なものではなく、関係的なもの。

つまり、視線の問題。
見ていたい、見られていたい。
言葉はとにかくどうでもいい。
ただ視覚で存在を感じたい。


視線って、あれはなかなかパワーがある。
見つめられると、なんかいいことがある気がする。
見つめていると、それは、・・・うん、いいことだ。


はいはい、そう言うなって。


背中で存在を感じるのも悪くない。
触れなくてもいい。
でも、視線にはかなわない。
視覚は要するに所有だ。
光を受ける器官、つまりパッシヴな器官だが、
視覚はアクティヴだ。
それは目をつむり、視覚を遮断でき、
頭と眼球を動かすことで、視角を変えられるから。
それだけじゃない、人は目でものを見ない。
頭でものを見る。
現実にないものを現実のように見ることができる。
私が見ている彼女は、君が見ている彼女と同一ではない。
僕は彼女に好意を抱いているので、彼女が良く見えている。
解釈のレベルではなく、視覚イメージのレベルで。
それは光であるし、フォルムである。
あばたもえくぼって、そう思い込むことではなく、そう見えてしまうことに違いない。


つまりですねぇ、あれは出っ歯じゃなくて、可愛いあひる口なんですっ。